創価学会を潰す正しい手順①嫌韓で日韓友好を潰し②嫌中で日中友好を潰し③嫌在日で在日を日本から追い出す。在日を朝鮮半島へ兵役。在日特権廃止、マスゴミの誘導潰し④自公連立の解消と課税。※現在①②③までが着実に進行中。#創価学会 #韓国 #中国 #在日 #兵役 #マスゴミ #公明党
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①創価が日蓮正宗に破門され20年その間にコツコツ日本人を騙し騙し『韓日友好』『日中友好』を薦めて来た②在日が日本人を騙しながら地味にコツコツ60年で在日特権を手に入れたが③どちらも最近1年弱で嫌韓や嫌中、嫌在日が増え、今までの頑張りや努力が全てがパーになった。何の努力だったのか
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創価学会の誕生と
創価学会初代会長の牧口先生、
二代目会長の戸田先生について
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創価学会は教育者であり初代会長であった牧口常三郎(旧名・渡辺:、明治四年新潟県生まれ)が
※初代会長~三代目の池田大作まで名前や漢字を変えるのは普通だった。
創立した『創価教学会』に端を発した在家仏教教壇。
昭和三年、日蓮正宗に入信。小学校長を退職後、『創価教育体系』発刊に専念し、
昭和十二年、麻布菊水亭で創価教育学会式(会長・牧口、理事長は牧口が校長時代その下で教員生活を送った二代会長・戸田)を行った。
発表会の時は六十余名だった会員が昭和十八年には三千人を数えるまでに発展した。
ところが同年七月に特高警察の弾圧を受けて幹部が拘引され、
翌十九年、牧口は巣鴨の拘置所で老衰と栄養失調のため他界。
牧口と共に獄中生活を送った戸田城聖は、終戦間際に釈放され、
二十一年一月、『創価学会』と改称して同会の再建に着手し昭和二十六年には二代目会長に就任して、
『折伏(ちゃくぷく)行進』の大号令を発した。
『七十五万世帯の折伏が達成されなければ、戸田の儀式は出さずに、骨を品川沖に捨てよ』と具体的目標が提示された。
この目標は昭和三十二年末には達成されました。
翌三十三年三月、日蓮正宗総本山大石寺(たいせき)に、創価学会の寄進による大講堂が落成し、1ヶ月間の記念式典に延べ二十万人の学会員が参加。
創価学会と大石寺の関係については初代会長・牧口常三郎が『日蓮正宗のよき壇那、大信者として偉大な御一生をつかれたのであり、
『お前たちもこのようにせよ』と示された』ことを戸田が継承しているところに原点があり、
さらに『よき壇那とは、じつに創価学会会員のことであり、その弟子としてつききり、よき壇那の列に連なり、御本尊ひとすじにお仕え申し上げ、広宣流布の折伏行に身をていしてこそ、みずからの宿命を打破し、真の幸福生活を確立する』(『折伏教典』)との相関関係が関係が示されています。
同年四月、大石寺大講堂落慶一ヶ月後に戸田城聖は五十八歳で他界。
この年、創価学会は、会長逝去にもめげずに百万世帯折伏の目標達成。
翌三十四年には地方選挙・参議院選挙でも躍進を遂げ、会員数も百三十万世帯に達しました。
昭和三十五年五月、三代目会長に池田大作が就任
(省略)
・民音(会員組織の芸術鑑賞団体。三十八年)、
・機関紙『聖教新聞』の日刊化(四十年)、
・創価大学開校(四十六年)
昭和五十四年三月、日蓮正宗の創価学会批判で
池田は法華講総講頭および創価学会会長を辞任し、創価学会名誉会長になる。
後任会長に選ばれた北条浩は、同五十六年に他界。第五代会長に秋山栄之助が就任した。
(省略)
その後は日蓮正宗と創価学会は決別状態(破門した、宗門を切った)にいたり現在にいたる。
※のちに日蓮正宗は創価学会が寄進の本堂を全て壊し、新しい本堂に建て替えてる。
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公明党の誕生
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昭和三十六年十一月、公明党の前身『公明政治連盟』が結成、翌三十七年の参議院選挙では、自民、社会に次いで参議院の第三党に進出。
創価学会と公明党の関係については、当初『一人の人間について、政治の面からみれば公明党員であり、
信仰のうえからは創価学会員であり、社会的には会社員であり(中略)同様に創価学会と公明党は一体不二の関係にある』
との基本原則が示されていたが、
昭和四十四年以降は、藤原弘達との間で生じた言論抑制事件を契機として、
公明党と創価学会との政教分離が促進され、
党の主体性の確立、議員の学会役職辞任、一般からの入党の三点の実施が図られた。
以下略
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- 2031/05/21(水) 12:35:55|
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